杉山製機株式会社は杉山由恵が大正の初め、仁保犂の原型を考案製作し、弟の定元と龍男らの協力のもと大正十年、大内村矢田に製作所を設立した。その後、農機具の改良普及に努め、大いに実績を挙げた。
功により由恵は昭和38年4月、黄綬褒章を、40年10月には従六位勲五等瑞宝章を追贈された。
■大正6年 畜力用農機具の製造を始める
■昭和22年 杉山農機有限会社を設立
■昭和38年 初代社長杉山由恵 黄綬褒章を受章
■昭和40年 2代目社長 杉山一男
■昭和42年 現在地に新工場建設
■昭和44年 杉山農機株式会社に組織変更
■昭和49年 杉山製機株式会社に社名変更
■昭和54年 3代目社長 杉山恵一
■昭和59年 造管工場増設
■平成11年 4代目社長 吉野俊明
■平成26年 ヘアピンベンダー購入
■平成27年 大型車両入替
■平成28年 ハイフレックスプレス購入
■平成30年 5代目社長 山下 宰主
犂一代男・杉山由恵(1894年~1965年)
農機具改良で発明男として知られる杉山由恵は、山口市大字仁保下郷1586番地に、父杉山実蔵の次男として明治27年2月28日に生まれ。兄弟が9人もあった。家業は家大工で由恵も長じて、父の手伝いなどしていた。大正6年、23歳の時、それまで大部分が木製だった犂に鋳物の刃先をはめることを考えつきこれを実用化した。当時、深野に住んでいたが、村名の仁保にちなみ「仁保犂」と命名して売り出した。発明の動機は土起こしに大変苦労する百姓の姿を見て、何とか楽にというのが夢であった。西日本は勿論、全国各地に普及愛用され、畜力農機具の先覚者として名声を博した。
杉山はこれだけで満足せず、砕土機「飛行機馬鍬」も同時に製造を始めた。大正12年には大内矢田に工場を移し、販路の拡張をはかった。
「杉山農機」の名は全国津々浦々にまで知れわたった。実用新規登録も数多くとった。大正14年10月、改良犂に対して農林大臣賞を受賞。昭和に入り犂先を更に改良し、「仁保犂万年号」として発売した。昭和10年2月には、農林省主催の砕土機懸賞で全国3等になり、大日本農会会頭賞を受賞した。昭和18年4月、戦雲急を告げる時、企業合同が行われ、防長農機有限会社大内分工場となる。戦後、昭和22年7月、杉山農機有限会社を設立し代表取締役社長に就任。そのころ農機の新鋭機として登場した2段耕犂を更に部分的に改良して注目を集めた。昭和34年9月、多年農機具の改良普及及び奨励による功による県知事表彰を受け、昭和38年4月29日には黄綬褒章の栄に輝いた。
しかし、このころより動力による耕運機が出回り、次第に田園から牛馬の姿も消えてゆく。農機具の一大変革が始まったのだ。折も折、杉山は昭和40年10月3日、突然な死に見舞われ、7人の子女に見守られて他界した。
病名は急性敗血症。前日までは従業員と同じ作業着を着て、工場内を歩き回っていたという。まさに 犂一代男 と呼ぶにふさわしい生涯であった。時に71歳。没と同時に勲5等瑞宝章が送られ、霊前に捧げられた。
仁保郷土史の抜粋